チェリビダッケのテンポについてあれこれと考えていて、指揮者と身長についての推測の改訂版。
架空庭園の書(第1巻の方)をベースに加筆・修正しています。
当時の巨匠たちが一同に会したところを撮影した有名な写真がある(1931年バイロイトで撮影されたものかと思うが)。
ブルーノ・ワルター
アルトゥーロ・トスカニーニ
エーリッヒ・クライバー
オットー・クレンペラー
ウィルヘルム・フルトヴェングラーの5人 (左から)
音楽が好きな人なら、この写真を見たこと、そして(もちろん)5人の指揮した曲を聴いたことがあるだろう。
さて、ここでクイズ
この5人の巨匠が作る音楽全体(様々な作品を指揮したものという意味だ)から受ける印象をもとに、各巨匠の音楽がもつテンポ感についてテンポの遅い順に並べよ。
クラシック音楽、とりわけオーケストラを聴く場合、そこには指揮者という存在は極めて大きい。
同じ曲を同じオーケストラで演奏したとしても指揮者が異なると、そこで生まれてくる音楽が
まったく異なる、というのは誰もが知っていることだ。
しかし、その差異がどこから生まれてくるのか、という点についてはどこまで明らかになっている
のだろうか?というより「そのように演奏されているのだから」という現状そのままを受け入れて
いるだけでしかないのではないか?
ここでは、クイズにあったテンポについて、改めて考えてみる。
テンポ。それは音楽において最も基本的な要素の一つであり、まさに解釈の領域である。
では、指揮者は、音楽において最も基本的な要素の一つである「テンポ」をどのように決定しているのか ?
楽譜に書かれている指示—速度記号あるいは時によってメトロノーム記号—-そして、なによりも音符そのものをから導き出されたものだろう。
だが、そこには別の要因、それも極めて物理的、具体的な要因もある(のではないか)というのが主題。
ここでいったん別の話題に
いくつか条件がつくものの、以下の事柄は明らかであろう。
同じ人物がいたと仮定すると
身長が高いならば肺活量も大きい 。つまり、身長160cmより200cmの方が多くの空気を貯め、吐き出すことができる。その量の差を実際に体感することは不可能だが、これに類することとして、次のようなことはいえないだろうか?
もし身長160cmのヒトが急に200cmになったとき、どのような感じを持つであろうか?
今までより40cmも高くなったのだから、その見えるもの、見え方は激変することは間違いない。 「200cmの人は、このように見えるのか!」と、これまで160cmで見えていた時の差に驚くのではないだろうか。
この逆、つまり200cmが160cmになっても、その驚きは、それほど大きくない。なぜならば、成長の過程で通過してきているから。そして、身をかがめるだけで160cmの見え方を体験できてしまう。
さらに別の話題に
『歌を歌う』とは 息を吸い、それをはき出すことで声帯を振動させる作業に他ならない 。
上記の仮定を適用すると、肺活量がある人は、そうでない人よりは、長く音を伸ばすことができる 。
つまり、あるフレーズがあったときに、肺活量が少ないヒトより、多いヒトの方が長い時間をかけてフレーズを歌うことができる(息が続くため)。長い時間をかける、つまり遅いテンポで歌うことが可能ということだ。 先の書いたように、この差を体感することは不可能だ。
自然な成長はゆるやかな変化なので、その変化を、変化として感じることも少なく、「いつのまにかそうなっていた」という感覚以上にはなりにくい。つまり、当人にとっては、あたりまえのことであり、ことさら改めて認識するということはないのではないか?
クイズの答えをもとにここでもう一つの写真を見てみよう。これは最初のものをベースとして、トスカニーニとフルトヴェングラーの別の写真を追加することで、全身を示したものだ。
背の高いほうから並べると、クレンペラー、フルトヴェングラー、ワルター、トスカニーニ、クライバーとなる。Wikipediaによると「クレンペラーは身長ほぼ2メートルの大男で性格は狷介にして不羈」とある。クレンペラーとフルトヴェングラーが並んだ写真が以下
クルト・リースの著書「フルトヴェングラー 音楽と政治」(みすず書房)p177に1937年ザルツブルグ音楽祭でおきたことについて書かれている部分に興味深い記述がある。
「彼(フルヴェングラー)は狼狽していた。そしてその狼狽をおしかくせなかった。自分より五十センチも背の高いフルトヴェングラーがそんなに狼狽しているのを見たトスカニーニは、苦笑せずにはおられなかったが,,,」
これらを基に、加工してみたが、どうもプロポーション的には、おかしい。もし50cmの差があるならば、トスカニーニはもっと小さく写っていなければならないのだが、ワルターより少し低い程度だ。
この本において、リースの記述は、トスカニーニには辛い傾向があるのだが、その気持ちが働いたのか、それともトスカニーニが台の上にでも乗っていたのか(隣のワルターと比べてみると、手の位置が高いのが不思議ではある)。
トスカニーニにすれば、フルトヴェングラーと会う場合、相手からは見下ろされることになるのだが、トスカニーニの性格—-残されたエピソードからは、独裁者的な面もあるのではないかとすら思われるのだが—-からすればかなり苦痛だったかもしれない。
さて、ここまで見てきて、身長とテンポには、偶然とはいえない、ある有意性があるように思えないだろうか?
数字で見てみると
以下は、ベートーヴェンの交響曲5番の録音時間の一覧。
第1楽章 第2楽章 第3楽章 第4楽章 合計
クレンペラー 07:24 11:48 06:26 09:50 35:28
フルトヴェングラー 06:38 10:35 05:41 07:46 30:40
ワルター 06:27 10:53 0 5:47 08:04 31:11
トスカニーニ 05:28 08:43 04:33 07:51 26:35
クライバー 05:48 09:15 05:20 09:13 29:36
クナッパーツブッシュ 07:13 11:16 06:18 10:20 35:07
チェリビダッケ 07:31 12:09 06:17 10:41 36:38 36:11
シュナイト 06:52 10:36 06:04 10:17 33:49
岩城宏之 06:13 09:51 05:01 08:57 31:02
小澤征爾 05:53 09:40 05:06 08:56 30:35
録音データ
クレンペラー:ウィーン・フィル 1968年6月16日 *
フルトヴェングラー:ベルリン・フィル 1947年5月25日 ** TAHRA
ワルター:コロンビア交響楽団 1958年1月27-30日
トスカニーニ:NBC交響楽団 1945年9月1日
クライバー:アムステルダム・コンセルトヘボウ 1953年 **
クナッパーツブッシュ:ベルリン・フィル 1956年4月9日
チェリビダッケ:ミュンヘン・フィル 1995年3月19日
ハンス=マルティン・シュナイト2006年3月4日 神奈川県立音楽堂
岩城宏之:NHK交響楽団 1966年3年30-31日 (世田谷公会堂でのスタジオ録音)
小澤征爾:水戸室内管弦楽団 2016年3月 水戸芸術館
- クレンペラーは、第1、第4楽章で繰り返しをしている。
**フルトヴェングラー、クライバー、岩城は第1楽章で繰り返しをしている。
上記の時間は、繰り返し(2回目)を抜いたもの。 岩城は
ワルターはスタジオ録音で、他はライブもしくはそれに近い状況のものを選択した。
トスカニーニは、太平洋戦争終了(勝利)を記念してのスタジオ録音だが、フルトヴェングラーとはまた別の感懐をもって指揮台に登ったであろうと思われる。
クナは非常に長身だった。チェリはフルトヴェングラーより少し高い。
身近では、シュナイト、岩城、小沢の3人は平均的な日本人ぐらい(シュナイトは日本人ではないが)
シュナイトのテンポ(の動きはデリケートさを極める。メロディーの中でさえ微妙な変化があり、それがシュナイトの音楽から受ける感動の源泉)は、身長からすると遅い。ただしシュナイトは豊かな体格の持ち主であり、肺活量の豊かさを思わせる。
これらの数字と、最初の写真を加工したものを照らし合わせると、仮説が単なる法螺話ではなくなるのではないか?
つまり
指揮者がテンポを設定するにあたり、設定されるテンポは「自身の身体がもつ要因に大きく影響される。しかもそれは無意識のうちに行われる」のだ。そして、この要因は、意識されないので語られることはなく、見過ごされる。
これが本項の結論。
とはいっても、これは素朴なころ(「ピリオド」といった話が出るまえ)の話なのだろう。録音技術も進み、情報がまたたくまに広がる現在、テンポの決定には、「素朴なころ」とは別のアプローチ—音楽的とはいいかねる—があることも事実。小沢/ 水戸室内管ではピリオド的な—HIP:Historically information performance)なアプローチがみられる。
ピンバック: チェリビダッケについてのメモ – 架空庭園の書 第2巻