音楽への"homage"を主題として、思いつくまま気侭に書き連ねています。ブログ名はアルノルト・シェーンベルクの歌曲から
ベン・クリード「血の葬送曲」

ベン・クリード「血の葬送曲」

音楽ファン、とりわけクラシック音楽のファンにお薦め

13歳の誕生日にリムスキー・コルサコフの伝記を買ってもらい、レニングラード音楽院にはいったときにはすでにチャイコフスキーの協奏曲を弾くのを聴いた人々がひれ伏すほどに巧く、担当教授は、これまでに教えたなかでもっとも優秀な生徒だと評価。生来の才能、一世代に一人の逸材。しかもまた、その見てくれのよさ。

しかし、政治警察の取り調べとそれにつきものの拷問によって左手の薬指と小指はどちらも失い、右手の薬指と小指は一度折れていびつに変形してしまいヴァイオリニストとしての道は閉ざされる。今は人民警察の警部補というのが「血の葬送曲」の主人公主人公レヴォル・ロッセル。

1951年10月13日、レニングラード郊外の雪が降り続いている鉄道の線路上に5体の死体が「一定の規則」をもって並べられているのを、ちょうどそこを通過しようとした蒸気機関車の運転手が、『たまたま』見つけたところから物語が始まる。5つの死体はそれぞれ餓死寸前まで追い込められ、それぞれ頭皮を剥がされ、身体を傷つけられている。共通するのは喉に太さはばらばらだがガラス管が差し込まれていること。

その謎解き、犯人捜しがストーリーとなる。
章立ても秀逸。第1幕 F、第2幕 A、順次 Eフラット、Bフラット、G、終幕コーダと構成している。変ホ長調は英雄の調—ベートーヴェンのエロイカや皇帝を想起せよ。

そこで語られる、そして本作の面白さ—複雑さでもあるが—となる様々なディテイルに圧倒されてしまうのだ。

ロシア、ソヴィエトの歴史について、あまり、いやほとんど無い程度—第二次世界大戦においてナチス・ドイツによるレニングラード包囲戦とそれに耐える市民のおかれた状況の凄絶さ、終戦後のスターリンをトップとする共産国家の恐怖政治についていくばくか—しか知識を持ち合わせていないのではあるが、それでも「カティンの森」でソヴィエトがなにを行ったのか、その残虐さと徹底ぶりからどのような体制であったかの推測は容易につく。

リムスキー=コルサコフの交響詩<<シェエラザード>>、プロコフィエフ<<ロメオとジュリエット>> といった作品名やブラームス、モーツァルト、ボロディン、ラフマニノフ、メトネルといった名前も出てくるのだが、この物語において大きな役割をもつのが、ショスタコービッチであることはいうまでもない。交響曲7番<<レニングラード>>がある。

前にも書いたが僕はショスタコービィチを好まない。どの作品を聴いても、そこに嘘を感じてしまうためだ。本作において、いわば影のテーマでもある<<レニングラード>>交響曲をあらためて聴いてみたが、第一楽章の途中で、例のチチンプイプイプイのところで止めてしまった。

読み終えて

5つの死体、それも惨たらしい殺され方とその置き方という秀逸ではあるが、設定の不自然さ—機関車の運転手が気づかなかったら、この物語が成立しない—が気になった。だが「それをいったらお仕舞だ」なのでそういうものだと割り切るとすると、本作は面白い。最後のほうでは、クライブ・カッスラーのダーク・ピット風の活劇もあるし。

クラシック音楽への造詣の深さを感じさせるが、それは著者の一人(つまり2人の合作)がイリヤ・ムーシンのもとで学んだということで、なんとなく納得。
もっともムーシンの名前は、女性指揮者(最近は増えてきました)西村智美サンがらみでしか聞かないが….

本作の1年後に起きる事件が描かれる次作が今年の秋に出版されるとのことで、これもきっと読むんだろうなぁ….

恥ずかしげもないロマン主義者のラフマニノフ
痛快な近代主義のストラヴィンスキー
胸えぐる情動表現のショスタコーヴィチ
そして指揮者ムラヴィンスキーは、尊大で辛辣で嫉妬深い男と指弾される。

となかなか的を捉えた表現ではないか。

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